寄席演芸(落語・講談)の歴史

2023年7月9日

ここでは、寄席演芸の歴史について、落語・講談を中心に説明します。

落語の誕生

それでは、寄席演芸の歴史を説明します。
といっても、そのジャンルは多岐にわたるので、ここでは落語と講談に絞って説明します。

落語と講談、いわゆる「話芸」は、主に江戸時代に発達した、言葉を話すことによって人の興味をひく芸能のことです。

落語の始まりには諸説あります。中には笑いの要素を含んだ説話を納めた『宇治拾遺物語』であるというものもあり、
たまに現役の落語芸人もネタにしますが、それを真に受けるには少し的外れな気がします。

いわゆる「小咄」(こばなし)と呼ばれる、短く滑稽な話にオチ(サゲ)がついた形式が成立し広まるのは、戦国時代後期と考えられます。
こうした話を広めた人々は、大名などの側に使えた茶人や僧侶、学者などで、「御伽衆」(おとぎしゅう)と呼ばれています。

江戸時代に入ると、そのような小咄を納めた本「咄本」(はなしぼん。「噺本」とも)が出版されるようになります。
この著者として、「安楽庵策伝」(あんらくあんさくでん)と言われています。彼の名を冠した落語の賞レースもあります。
策伝は浄土宗の僧侶で、話がうまく、また事あるごとに小咄を書き記して『醒睡笑』(せいすいしょう)という書物を残しました。
『醒睡笑』の中には、現代に伝わる古典落語の原型となった小咄が多く含まれています。

僧侶は人々に説法をする際に、話で聴衆の興味を引き付け、より多くの人に宗教を広める必要がありました。
そのため、話の技術を高める必要があったようです。僧侶は人々より一段高いところから説法を行ったのでこれを「高座」(こうざ)といい、
現代の寄席や演芸場の舞台、またはそこで演じられる落語などを「高座」と呼ぶのはこの名残です。

江戸時代中期、元禄時代(1688~1704年を中心とした時期)になると、
ちょうど時期を同じくして三都に落語家の祖と呼ばれる人物たちが現れました。
京都に露の五郎兵衛(つゆのごろべえ)、大坂に米沢彦八(よねざわひこはち)、江戸に鹿野文左衛門(しかのぶんざえもん)です。
五郎兵衛や彦八は繁華街で面白い話をして引き付ける興業「辻噺」(つじばなし)を行い、人気を取りました。
一方、文左衛門は辻噺も行いましたが、「座敷仕方咄」といって裕福な町家や武家の座敷で主な活動を行いました。
現代でも江戸落語(えどらくご)はしっとりとした話し方、上方落語(かみがたらくご)は賑やかな話し方という個性がありますが、
この特徴が当時から引き継がれていることがわかります。上方落語で使う演台と拍子木は辻噺の名残と言われています。

五郎兵衛は『軽口(かるくち)つゆがばなし』、彦八は『軽口御前男』(かるくちごぜんおとこ)、武左衛門は『鹿の巻筆』(しかのまきふで)
といって三者三様の著書を残したほか、特定の支援者に頼らず独自の活動を行った点で、落語家の祖といえます。
しかし、武左衛門は何らかのトラブルに巻き込まれてお咎めを受けてしまい、江戸の落語はしばらく姿を消します。

百年近くたった天明(1781~1789)頃になると、落語中興の祖と呼ばれる「烏亭焉馬」(うていえんば)が現れます。
彼は、趣味人たちを中心として新作の小咄を披露しあう「咄の会」を主催し、この場で披露された噺を記録した本も出版されました。
焉馬が巻き起こした落語ブームは現代の落語様式の基礎になり、「座ったままで」「扇子や手ぬぐい以外の小道具は使わず」
「人物の描き方をことさら強調せずに」演じるやり方はこの頃固まったと考えられています。

プロの落語家の祖としては「三笑亭可楽」(さんしょうていからく)が挙げられます。
彼は落語を演じることによってのみ生計を立てられるようになり、職業落語家という地位を作り上げました。
同時期に江戸や上方で名人上手が多く生まれ、現代にも残る作品が作られました。

講談の誕生

落語が笑いを重視する芸能であるのに対し、講談は物語性を重視した芸能です。
このことは、講談のはじまりに関わると考えられます。

小咄などを行っていた「御伽衆」たちの中には、武将たちに『太平記』をはじめとする軍記物語の講釈を行う者たちもいました。
軍記物語の読み聞かせを「軍談」といい、現代に至るまで講談の基礎となってきました。

講談は書物の読み聞かせを由来とするため、口演の際は「話す」ではなく「読む」と言います。
また、落語の真打が「師匠」と呼ばれるのに対して、格式高く書物を読み聞かせる芸能である講談の真打は「先生」と呼ばれます。

江戸時代に入り太平の世の中になると、彼らは職を失って浪人になりました。
彼らは稼ぎを得るため、神社の境内や盛り場などで興業を行うようになったといいます。
といってもまだこの時代は講談だけで生計を立てることは難しく、寺子屋の師匠などの本業を持っていたようです。
元禄時代になると有名な講釈師が現れるようになり、人形浄瑠璃や歌舞伎の作者として知られる近松門左衛門も「徒然草」の講釈を行っていた記録があります。

18世紀半ば頃になると講談は内容面が洗練され、昔の書物を読み聞かせるだけではなく、
大名家のお家騒動や仇討ちなど同時代の事件を読むようになり、講談を専門とする講釈師が何人も出ました。

その中で、元僧侶の「馬場文耕」(ばばぶんこう)が現れ、時事問題を積極的に扱いました。
毒舌が特徴で人気者でしたが、ある事件における幕府の対応を公然と批判したため逮捕、死罪になりました。

その弟子といわれる「森川馬谷」(もりかわばこく)は、講釈場の伝統的な看板やビラの書き方などを定め、
また演目を修羅場(しゅらば、軍記物)、評定物(ひょうじょうもの、お家騒動や政談)、世話物(同時代の事件)と区別し、
江戸時代の講談の興行形式を固めた人物とされます。

江戸時代後期になると、さらに講談は娯楽化を深め、大衆に身近な存在となっていきます。

桃林亭東玉(とうりんていとうぎょく)は堅苦しい講釈をわかりやすく面白く演じたので女性客からも人気を集めました。
また、東龍斎(宝井)馬琴は、それまでの講釈師が棒読みで演じていたものを音色を使い分けて演じ、聴衆から喜ばれました。
大岡政談の一つ「天一坊」で人気を取った「神田伯山」(かんだはくざん)が出たのもこの頃です。

一方、「伊東燕晋」(いとうえんしん)は娯楽化する講談の潮流を嫌い、軍記物だけを読みました。
講釈は「御記録読み」(ごきろくよみ)であるとし、聴衆より高い位置から語らなければならないと
奉行所へ願い出て認められたということです。また、将軍徳川家斉に召されて講釈をしたとも伝わります。

天保の改革後の寄席全盛期

こうして落語・講談はそれぞれ発展を遂げ、人々に親しまれてきました。
しかし、水野忠邦による「天保の改革」(てんぽうのかいかく、1841年~1843年)により贅沢が禁止され、
それぞれ百数十軒あったといわれる落語席や講釈場が合わせて市街地15軒・寺社地9軒にまで減らされてしまいます。

しかし、この禁制が緩むと、改革以前よりさらに膨張し、講釈場・落語席それぞれ200軒近くを数えるようになりました。
各町内には必ず1~2軒の寄席があったと伝わっています。

寄席のよいところはなんと言っても気軽なことです。金銭面でも芝居観劇より安く済むことはもちろん、
思い立ったら近所にある寄席にふらりと出かけて昼夜問わず楽しむことが出来ました。
また、興行側にとっても大がかりな施設を必要としない寄席は開設が容易でした。

講談では江戸時代中頃から演目が実録と呼ばれる実在の事件に題材を取った小説や、歌舞伎・人形浄瑠璃の演目と交流を始めていましたが、
江戸時代末期になると落語・講談はそれ以外の諸芸と密接に交流を始めるようになります。

寄席では落語・講談の本芸の他に義太夫節などの音曲、声色や手品などが盛んに上演されるようになります。「色物」のはじまりです。
落語・講談では「前座」(ぜんざ)、「真打」(しんうち)などの階級制度がほぼ固まり、また双方の演目が交流するようになります。
「怪談牡丹燈籠」(かいだんぼたんとうろう)などは現在落語・講談の双方で取り扱う題材ですが、そのように同じ演目を共有するようになったのです。
また、この頃には講談師が落語家に、また落語家が講談師に転身する事例も見られます。それほど落語と講談が接近していたということです。

明治時代以降の寄席

寄席は明治維新の波をうまく乗り越え、明治・大正時代に至っても人気を維持します。
しかし、新しい芸能である映画・ラジオ・テレビが登場すると徐々に勢いを失っていき、
大正時代には東京市内に100軒は下らなかった寄席の数が落語では4~5軒、講談は1軒まで減少。
特に講談の凋落はすさまじく、1967年(昭和42年)『講談師ただいま24人』なる本が出版されるまでに至りました。
数少ない落語寄席だった人形町末廣は1970年、最後の講談定席だった本牧亭は2011年に閉場してしまいます。
上方落語は漫才の隆盛により落語家からの転業を勧められるなどして衰微、一時は絶滅の危機に至りました。

しかし、寄席演芸文化を守りたいという業界人の思いは強く、上方落語は四天王と呼ばれるスターが牽引する形で復興。
講談は女性の弟子を数多く受け入れ、演目も多様化することで、観客へさらに寄り添う演芸へと変化していきます。

概ね2000年頃から江戸文化が世間で再評価されるようになると、まず落語が江戸の古典文化としてトピックになり
相次いで映画・ドラマ・アニメが製作されるようになり、このようなメディア露出を機に落語ブームが発生。
次いで、落語の演出を講談に取り入れた神田松之丞(かんだまつのじょう、のち六代目神田伯山を襲名)が一躍時の人となり講談ブームが発生。
2023年現在、落語家は東京・大阪で合計850人程度、講談師は東京・大阪で合計100人程度がプロの団体に所属して活動しています。
寄席そのものも横浜にぎわい座が2002年、天満天神繁昌亭(大阪)が2006年、仙台花座が2018年に開業するなど復調の兆しを見せ始めています。

寄席は2020年以降の新型コロナ禍で多大な影響を受け、一時は休場要請をめぐって政府や東京都と対立し社会問題化しました。
しかし、コロナ禍の収束により観客動員は復調し、2023年現在では多くの寄席でコロナ禍以前の営業形態を取り戻しつつあります。

今後ますますの寄席演芸文化の発展を期待したいと思います。

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