能楽(能・狂言)の歴史

2023年7月9日

このページでは、能楽の歴史について簡単に解説します。

能楽の歴史


能楽のうち「能」は、奈良時代に大陸から伝来した「散楽」(さんがく)が平安・鎌倉時代にかけて変化した「猿楽」(さるがく)および、
農耕芸能である田植え歌などを基に発展した「田楽」(でんがく)が洗練され、演劇の形になることによって生まれました。

「散楽」とは文字通りさまざまな芸能の総称で、物真似芸や踊り、曲芸などから成り立っていたようです。
次第に「散楽」という芸能が時代を下ると次第に「猿楽」と呼ばれるようになりました。
「猿」の字がどこから来たかは不明ですが、「猿回し」などと言われるように、
猿楽の一部が物真似芸であることが一因ではないかと言われています。
そして、物真似芸や踊りなどが物語性を備えるようになり、次第に専業の者が演じる演劇的な要素を帯びてきます。

「田楽」は、稲作文化を持つアジア各国で行われているような、農耕の場で行われた神事芸能が基になっているものと考えられます。
それが、散楽・猿楽の影響を受け、平安・鎌倉時代にかけて急速に発展していきました。
具体的には、歌や笛、踊りなどを伴いながら豊穣を祈願するものだったようです。
田楽もはじめは素人に近い者たちによって行われましたが、こちらも専業とする者が現れ出します。

「猿楽」や「田楽」がどのように「能」に近づいていったかは定かではありませんが、
文献には「猿楽能」(さるがくのう)や「田楽能」(でんがくのう)という文字が現れ始め、
鎌倉時代末期から室町時代初期には専業の者が演じる複雑な筋書きを伴う演劇に発展しました。

室町時代初期には「観阿弥」や「世阿弥」という人物が現れ、大きな人気を集めます。
これを好んで保護したのが、当時権力の絶頂にあった足利義満で、これを機に能が武家の庇護を受け、
主に武家の芸能として発展していく基礎を作りました。

一方、狂言の成り立ちを考察すると「能」よりさらに文献が限られるのですが、
「散楽」の物真似芸が滑稽的な要素を持ち、これが複雑な筋書きを持って演じられるようになったものと思われます。
ですから、能と狂言は兄弟的な芸能であり、能は歌舞的な側面、狂言は物真似芸の側面を持って成長していったと考えられます。

応仁の乱を経て戦国時代になると室町幕府の権威は低下し、代わりに細川家などの守護大名の基で保護され、発展していきます。
この時代にはより多くの人々に鑑賞されるためか、現代人が見ても「派手で、わかりやすい」演目が作られます。

さらに時代が下ると、能を熱狂的に好んだのが豊臣秀吉です。
彼は能を鑑賞するのみならず、自分の事績を織り込んだ演目を能役者に作らせ、それを舞って演じたほどの熱狂的ファンでした。
現代でも自身のテーマソングを作らせて自ら歌うワンマン社長がいますが、秀吉はそのような人物だったのかもしれません。

江戸時代に入ると、能楽は「武家の式楽」(ぶけのしきがく)、これは武家の公式の音楽という意味で、
すなわち武士が備える教養として幕府や諸藩からの保護対象になり、これが能楽の古典化を決定づけました。
能楽や能楽者は幕府から保護される代わりに、古典芸能として一言一句間違えないように訓練するよう求められ、
また演出面でもいつどこでも同じ様式で上演されるように固定された演出が編み出され、保存されました。

明治維新を迎えると、能楽を庇護してきた幕府や各藩は消滅し、能楽は消滅の危機を迎えます。
実際に、明治維新を経て断絶した流儀はいくつも存在します。

この様子を憂慮した有志が1878年(明治11年)に東京に設立したのが「能楽社」で、日本初めての「能楽堂」が誕生しました。
それまで能楽は屋外に設置した屋根付きの舞台で演じられてきましたが、
これを西洋演劇にも負けない舞台にしようと屋根付き舞台をまるごと大きな建物の中に納めたのです。
舞台が屋外から屋内へ移転したことによる演技や演出の変化は計り知れないと思います。

こうして能楽はふたたび公的な保護を受けつつ、世間の人々に開かれる形で現代に至っています。

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