歌舞伎の歴史(元禄時代まで)

2023年7月3日

歌舞伎の元祖・風流踊

このページでは、元禄時代までの歌舞伎の歴史について簡単に触れておきたいと思います。

歌舞伎の直近の先祖は、室町時代に流行した「風流踊」(ふりゅうおどり)とされています。
「風流」(ふりゅう)とは、華やかで人目を引く、驚かすといった意味の言葉です。

「風流踊」は、2022年にユネスコ無形文化遺産に登録されました。
文化庁による提案書の概要に内容がよくまとまっているので、引用してみましょう。

「華やかな、人目を惹く、という「風流」の精神を体現し、衣裳や持ちものに趣向をこらして、
歌や、笛・太鼓・鉦(かね)などの囃子に合わせて踊る民俗芸能。
除災や死者供養、豊作祈願、雨乞いなど、安寧な暮らしを願う人々の祈りが込められている。
祭礼や年中行事などの機会に地域の人々が世代を超えて参加する。それぞれの地域の歴史と風土を反映し、
多彩な姿で今日まで続く風流踊は、地域の活力の源として大きな役割を果たしている。」
(出典:文化庁「『風流踊』のユネスコ無形文化遺産代表一覧表登録に関する評価機関による勧告」,2022)
このうち具体的な芸能として、「西馬音内の盆踊」(にしもないのぼんおどり)、
「郡上踊」(ぐじょうおどり)、「鷺舞」(さぎまい)などが今でも伝承されています。
様々な扮装で着飾って輪になって踊る、というのが典型的な風流踊といえるでしょう。

そうした「風流踊」のうち、「ややこ踊り」と呼ばれる芸能が行われます。
「ややこ」とは小さい女の子、童女のことで、当初は文字通り童女の行う踊りであったものが、
女性が唄を歌いながら踊る一般的な言葉へと次第に変化していったようです。

出雲阿国と初期の歌舞伎

西暦でいえば1580年頃から、その「ややこ踊り」を京都で披露する、「出雲阿国」(いずものおくに)という女性がいました。

彼女は、奇抜で異様な(例えば大きな刀を差して町中を歩き回る)「かぶきもの」(=普通ではない者)
と呼ばれた当時の男性たちの風俗を踊りに取り入れて大評判となりました。
当時は豊臣秀吉や徳川家康などによる天下統一事業が進み、武士たちは戦場から必要とされなくなり行き場を失います。
彼らは荒々しく人目を引く格好で闊歩し、これを「かぶきもの」(=傾き者)と呼びました。
単純に考えれば人の迷惑ですが、一方ではこうした美意識を「かっこいい」と考える見方もあったようです。
この「阿国」による男装の歌や踊りが、「かぶき踊り」の由来の一つであるといわれています。

俗に出雲の阿国は歌舞伎の創始者と言われていますが、ある芸能ジャンルを一人で創始することはできません。
実際に阿国の踊りは「ややこ踊り」「かぶき踊り」の二通りの呼ばれ方が混在していました。
芸能は常に他者の模倣と少しの創造から作り上げられています。その意味で、出雲の阿国は
「ややこ踊り」に「かぶきもの」という男装の要素を取り入れたイノベーター、偉人ではあるものの、
「歌舞伎」の創始者とまで言うことは適切ではありません。とはいえ、歌舞伎の起源を創った人物の一人ではあるでしょう。

とはいえ、「かぶき踊り」は1600年頃からたちまち広まり、はじめ芸能を専門とする女性の集団によって行われました。
新しく伝来した三味線音楽も取り入れたこの形態を「女歌舞伎」(おんなかぶき)といい、全国各地で流行しました。

しかし、その人気の高さは遊郭の主たちを通じて遊女たちにも広まり、風俗的な客引きを目的として演じられるようになると、
芸能を専門とする集団が興業として「女歌舞伎」を演じることは難しくなってしまいました。
結果として「女歌舞伎」は遊女が演じるものとなり、風紀を乱すとして幕府や藩によって禁止されます。

すると、これまでも「女歌舞伎」と平行して少年たちによって演じられていた「若衆歌舞伎」(わかしゅかぶき)が
さらに人気を集めるようになりました。男性ならではの軽業などの特色もあったのですが、
少年の風俗(「男色」だんしょく・「衆道」しゅどう)を前面に押し出していることは同じでした。
このため、若衆歌舞伎も取り締まりの対象となり、全面的に禁止されることになりました。

野郎歌舞伎の展開

歌舞伎の興行に携わっていた者には大問題です。なんとか歌舞伎を復活させる方法はないか。
どのような嘆願や交渉があったかどうかはわかりませんが、二つの条件を受け入れることにより再開を許されました。

条件の一つは、成人の証として前髪をそり落とした「野郎頭」(やろうあたま)の男性が演じること。
このような男性であれば、一般に売春の対象とはならず、風紀を乱すことはないと考えられたからです。
「野郎頭」の男性による歌舞伎のことを「野郎歌舞伎」(やろうかぶき)といい、この様式が現代の歌舞伎にも続いています。

もう一つの条件は「物真似狂言尽」(ものまねきょうげんづくし、たんに「狂言づくし」とも)であること。
「物真似」とは写実、「狂言」とは芝居。すなわち、好色的な内容ではなく、筋書きのある写実の芝居を行うということです。
幕府による規制が、期せずして歌舞伎の内容面での進化を促すことになりました。
男性による女性の表現「女形」(おんながた)の確立もこの頃のことです。

荒事と和事

時代は下って元禄年間(1688年~1704年)のころ、江戸や京・大坂のような大都市は好景気に沸き、
町人文化が大きく発展します。歌舞伎もこの頃に大きく進化しました。

新興都市の江戸では、勇ましく活発的であるものが求められていました。
江戸の血気盛んな空気感を反映した表現手法が「荒事」(あらごと)です。
力強い「見得」(みえ)や「六方」(ろっぽう)といった豪快な表現方法のほか、
筋肉や血管の張りを誇張する「隈取」(くまどり)という化粧法などが発達しました。
こうした荒々しい表現手法を大成して人気を集めた役者に、初代市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)がいます。

古くからの経済・文化都市である京・大坂では、江戸とは対照的に優美で柔らかみのある表現が好まれました。
これを「和事」(わごと)といいます。ふんわりと色気のある化粧などが象徴的です。
元禄年間には坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)が得意とし人気を集めました。
この後歌舞伎は作家性を強め、演技面でも洗練されていきますが、まずはここまでとします。

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